リブラリウスと趣味の記録

観劇とかパフォーマンスとかの鑑賞記録を淡々と。本務の仕事とか研究にご興味ある方は本家ブログまで( http://librarius.hatenablog.com/ )

【観劇ログ】遠山昇司 フェイクシンポジウム『マジカル・ランドスケープ』

どうも。イマイです。

本業はいちおうアカデミックな世界に足を突っ込んでおりまして,シンポジウムと呼ばれる形態のイベントは身の回りに数多く存在します(そしてそのほとんどを開催記録で知る程度の出不精です)。私自身もパネリストで参加したり,コーディネーターの役目を担うこともあったりで,作り手と受け手の両方を体験しているフォーマットです。(そういえば,本業ど真ん中のシンポジウムのレポートを掲載してもらったばかりでした。)

current.ndl.go.jp

今回,私の知人である福島幸宏さんが舞台に立つと聞きました。本体ブログよりも更新頻度が高いこのブログからも伺えるように,小劇場がこの上なく好きな私としては「ズルい」とか「羨ましい」という感情とともに,どんな題材であっても見届けたいという気持ちが強くありました。その上,アカデミックな世界ではそこらかしこにあるイベントについて,フェイク(偽物,模造品)という冠をかぶせて表現すると聞けば,興味が強くならない方が嘘でしょう。

そんなこんなで,京都市北文化会館ホールまで駆けつけた次第です。

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ちなみに,初日の様子はegamidayさんが簡潔にブログで示してくださっているので,そちらも合わせてご参照くださいませ。

egamiday3.seesaa.net

(トップページからご覧の方は「続きを読む」リンクをタップしてください)

1.開演前

受付でチケットを引き取った後,折り込みチラシの束とともに,手の込んだパンフレットと,1冊の本が入った袋を受け取りました。

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この本だけでも,1冊1000円するのでこれとパンフでほぼ元を取れるような価格設定で,驚嘆するばかりでした。この催しが「シンポジウムである」ということを印象づけるための一つの仕掛けだったとしても,凄いことだと思います。

恋墓まいり・きょうのはずれ――京都の“エッジ”を巡る二つの旅

恋墓まいり・きょうのはずれ――京都の“エッジ”を巡る二つの旅

 

2階のホールへ上がると, 405席の大きめの空間が現れました。舞台下手に演台とスタンドマイクが置かれ,舞台後方にはプロジェクター用のスクリーンが配置されスクリーンの左右は黒い幕で覆われています。いわゆるスライド上映をして基調講演をする方式でのセッティングが組まれていました。

https://www.kyoto-ongeibun.jp/kita/facilities.php

開演前アナウンスが終わり,2日目の開演時間15時が過ぎました。場内が暗くなっていき,いよいよ「演劇として」のフェイクシンポジウムが始まります。

さて,とっくに千穐楽を終えているのですが,このブログのお約束として,ネタバレ防止用の改行連打をしておきたいと思います。いつものことなので。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.あらすじと序盤

本イベントの公式Webサイトによると,この作品のあらすじは下記の通りです。

~現実と虚構が混ざり合う先に見えてくる、京都の新たな風景~
映画監督でありながら、誰かの水曜日の出来事が書かれた手紙を転送、交換する参加型アートプロジェクト「赤崎水曜日郵便局」(2014年)のディレクターを務めるなど、そのマルチな才能が注目される遠山昇司。風光明媚な京都からは少し外れた何気ない場所に張り付く物語=風景の数々。公演では、一見して脈略のないそれらの地点を想像力によって結びつけ、京都のまちの在り様を周縁から考えるシンポジウムを開催。しかし、実際の研究者、作家らが登壇して行うこのシンポジウムは遠山によって演出されているパフォーマンスでもある……どこまでが現実でどこからがフィクションか?現実と虚構が混ざり合う「フェイク」シンポジウムから、京都の新たな風景を浮かび上がらせる。( http://circulation-kyoto.com/program/toyama より引用)

場内が暗くなった後,真ん中のスクリーンに黄色い円形の光がおぼろげに点り,女性(玉井夕海さん)の声で物語の朗読が始まります。どこかの世界で,山並みとか風景が思い浮かぶようなセリフが重ねられていき,女性が上手から現れます。中央で動きながら情景描写が丁寧に行われていき,何か思いを残してこの世を去ったかのような印象を残しつつ,そしてまた上手へと去って行きます。

再び暗くなった舞台のスクリーンには,「シンポジウム マジカル・ランドスケープ」「第1部 基調講演 北山の海」と表示されています。私の記憶のストックにある福島さんの声がスピーカーから聞こえ,シンポジウムが開始することを認識しました。

さて,シンポジウムが始まって・・・あれ?演題にスポットライトが当てられているのに,そこには登壇者の松田法子先生の姿がありません。声は聞こえてきて,発表スライドと思われる写真が提示されてはいるのですが,本来はそこにいるはずの人の姿がありません。

しかしながら,「京都の北山がかつて海だった」という導入が興味深いこともあって,まるでラジオを聞いているかのような感覚で,そこに誰かがいるのだと勝手に補完しながら,講演に聴き入っていました。かつて海だった京都の平安京のあたりは,断層による地震がきっかけで隆起し,やがて海が入り込む高さではなくなり,盆地となっていくというストーリーは京都の歴史に明るくない私でも困難を感じない平易な語り口でありながら,扱っている内容はとても学術的な内容で,知的好奇心を揺さぶられる内容でした。

松田先生のフィールドワークに基づいた研究成果や豊富な資料写真,Google Mapへの加筆資料を見ながら,演劇を見ていることを忘れて夢中になって聞いていました。そんな中,ゼミ生とともにフィールドワークをした内容が語られ,海へ小舟でこぎ出したというセリフが発せられた直後,スクリーンが真っ暗になり,突如,詩が投影されます。唐突とも思える切り替えに,「あ,これは,フェイクシンポジウムであったのだ」と思い直しました。

私のシンポジウムの経験では,少なくともほぼ初めての詩が挿入される基調講演。詩の中に現れるあるフレーズによって,定点カメラで撮影した映像を早回しすることで,長い長い時間を一瞬に認識できたような錯覚に陥って,気がつけば涙ぐんでいる自分がいました。先ほどまでの北山の海から始まる長い時間を認識していたからもしれませんが,とても不思議な高揚感を感じた次第です。

第二部のパネルディスカッションでは,今度はテーブルも置かれず,背景には文脈と沿っているのか沿っていないのかも曖昧な写真が映し出されながら,発言者の声だけがスピーカーから聞こえてくる仕掛けになっていました。まるで会場の外で参加資格はないけれども,面白いので盗み聞きしているような感じさえ覚えました。

そんな見たこともない映像情報とは裏腹に,音声で聞こえてくるパネルディスカッションでは,以下のメンバーによりあくまでもアカデミックな世界で普通に行われている「あのフォーマット」がそのまま展開されていきます。

モデレーター
福島幸宏(京都府立図書館)

パネリスト(50音順)
影山裕樹(編集者)
芹沢高志(P3 art and environment 統括ディレクター)
田村尚子(写真家)
遠山昇司(映画監督)
松田法子

風景,景観,ランドスケープの区別,ラディカル・オーラル・ヒストリー,作られた風景,フレームの外側に意識するもの,「マク」の向こう側,あくまでも記憶に残っている単語を拾い出しただけですが,かなり違う立場のパネリストが自分の視点でランドスケープを語り,そして次々に問題のフックとなる話題を提供し続けていきます。

www.iwanami.co.jp

モデレーターの福島さんはそれを丁寧に交通整理し,話者のネタ振りを巧みに回収していきます。話題が拡散し,解決策自体は聞き手に委ねられるところもありましたが,それでも知的好奇心を大いに刺激するパネルディスカッションが行われていました。

第三部はピアノの演奏がバックで聞こえる中,基調講演で登場した詩が,もう一度松田先生の声で朗読されました。 そして,それまで閉まっていた黒い幕が左右に開き,スクリーンが上がっていき,舞台の全景が現れました。

真ん中にはピアノ,そしてさきほどまで登壇していたと思われるモデレーターとパネリストが上手側にテーブルを前に着席しています。あ,シンポジウムで取り上げられていた「マク」の向こう側とは,幕の向こう側だったのかと独り合点していると,玉井夕海さんのピアノによる弾き語りが始まりました。

先ほどまでの録音収録かと思われたシンポジウムは,リアルの人間がいたのであるというメッセージにも見え,想像の中で形作っていたパネリストの顔と答え合わせをしながら,優しい弾き語りを聴いていました。 

3.感想

たまたま今回は,こういう結末になるのだろうなと予想し感想の下書きを書いていました。たいていの場合,予想とは反する結果になるので,こういう下書きはそのまま破棄するのですが,今回についてはあまりその方向性が変わりませんでした。(以下,一部加筆を加えつつ,その感想をそのまま転記しておきます)

アメリカのプロレス団体WWEでは,従来のプロレスにあった「筋書き」の存在を公式に認め,スーパースターと呼ばれるレスラーたちはそれに沿って「リアル」であるかのようにテレビカメラの前で振る舞うよう求められる。しかしながら,番組の最初には必ずテロップで「この映像はレスラー個人の主義主張を現したものでも,会社の態度表明をしているわけでもない」とハッキリと明記され,あくまでも嘘であることは明示されている。(ただしリアルの事件やイベントを筋書きにどんどん盛り込んでいくため,たとえ嘘だと分かっていてもストーリーには驚かされる妙がある。)
そんなことを思い出すくらい,フェイクであることをうたい,リアルとの境を曖昧にし,演者そのものとは完全に切り離す,この装置はとても羨ましく感じた。
 
リアルのシンポジウムであれば,社会的な責任とか主義の一貫性が必要であると,自分で制約条件を課して思うような発言ができないことがある。このフェイクシンポジウムはあくまでもフィクションであるから,リアルと重なることはあれども,たとえ突飛な意見だったとしても,それは空想の世界の同姓同名の人物が発したファンタジーである。たとえ内容の責任が求められるとしても,演劇作品であるならば,個々人のキャラクターよりも演出家や脚本家に責があるわけで,その意味ではパネリストや講演者にとっては,なんと自由な場なのかと感じた。
 
もちろん,普段の私たちがフェイクという名前を冠してシンポジウムをやったところで、個人の主義主張とは切り離してはくれないだろうし、ましてやあれは全てエンターテイメントだったといえば、袋叩きに遭うだろう。このフェイクシンポジウムにはそうなることを防ぐための装置や仕掛けがちりばめられていたのだと思う。
 
シンポジウムのパネリストをそれほど体験してきたわけではないが、ここまで筋書きができてるシンポジウムをやってみたいと、羨ましくも思った。パネル発表でどんなに準備しても、パネルディスカッションはアドリブ芸にならざるを得なかったし、そこでは凡庸な意見しか提示できず悔しい思いを何度もした。

もちろん,シンポジウムの題材も内容もリアルのものに匹敵するほどの面白く,知見に富んだ内容であり,単なる放談とは訳が違うのですが,それでもフェイクと名付けていることで,より展開しやすい,題材に沿った内容が提示できるのではないかと感じました。それ以外の感想については,箇条書きでまとめます。

  1. フェイクはどこまでフェイクか,何がリアルだったのかという話。てっきり私はテーマ設定自体も空想の世界であって,それをまるでリアルの世界であるかのように(いわゆる異世界もの)扱うものではと予想していたのですが,驚くほどにリアルのシンポジウムに近い作り方がされていて,提示の外側だけが違っているという印象でした。
  2. 演劇としてみることでどんな集中ができたのかという話。おそらく私自身は,既存のシンポジウムではここまで,一言一言に集中して聞いていないように思いました(いつもが不真面目であるというわけではなく,フレーズに集中してということです)。演劇作品だから伏線があるのではないか,何かまとまりがあるのではないかと探ろうとして,つまりは演劇を見るときの集中力で見ていたのではないかと考えています。そして場内を暗くすることで,気が散ることもなく,ちょうど深夜ラジオを聞いているかのように,学会発表のお決まり文句である「ご静聴」をしていたように思います。
  3. 「詩」の効果について。おそらく普通の学会発表では挿入されないだろう,基調講演途中からの詩の挿入は,私にとってはすべてが明らかでなく、曖昧な部分が残されているからこそ、空白を埋める道具として機能していたように思います
  4. 細かい点ですが,基調講演で登場した写真が,パネルディスカッションで1枚だけ写真が繰り返されて投影されていました。この写真を印象づけることが目的なのか,その後の詩を印象づけることが目的なのかは分かりませんが,いずれにせよ,それ以降の写真に何か意味があるのではないかと,注意を働かせ直すきっかけになっていました。
  5. 北山の海というテーマは,私は普通に生きていたら興味を持たなかっただろうし,既存のイベントで聞いただけでは3ヶ月先には忘れてしまっているだろうテーマなのですが,ここまでブログを書いていて予感しているのは,おそらくは一生語り継ぐ題材になってしまっているということです。リアルシンポジウムとしても成り立つし、一種のエンターテイメントとしても成り立つ不思議さにまだ上手い言葉が出てきません。

4.答え合わせ編?

以上のような感想を劇場のロビーで色々考え,メモ書きにしていました。機会があって,終演後,出演者の方や遠山昇司さんに話を伺うことができたので,上記の感想の答え合わせのようなものをしたのですが・・・

  • え,あの基調講演とシンポジウムとパフォーマンスは,全部事前収録じゃなかったんですか。(なんとスクリーンの裏でマイクからそのままライブでやっていたとのこと)
  • え,基調講演の詩の挿入とタイミングは,最初からの演出ではなく登壇者が自分で作ったんですか。
  • え,パネルディスカッションの台本って1巡目だけ決まっていて,あとはアドリブでつなげていたんですか。

前提条件がガラガラと音を立てて崩れていきまして,まんまと騙されていたことが分かりました。上記の感想で書いた「驚くほどにリアルのシンポジウムに近い作り方がされていて,提示の外側だけが違っているという印象」というフレーズには間違いはないのですが,思った以上の猛者がスクリーンの向こう側には陣取っていたようです。

いずれにせよ,演劇ってこんなこともできるんだと新しい発見に知的興奮を覚えつつ,勝手に足かせを演劇に填めていた自分に愕然とし,見事に役割を果たしている福島さんに嫉妬というか羨望に似た眼差しを送っていた1日でした。趣味は趣味として切り分けている時間がもったいないぞと,態度を改めるきっかけになりそうな作品でした。

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